前回のポストで見てきたように、人新世の危機を打開するためには、人間とテクノロジー、地球環境の絡み合いを理解する必要があります。しかし、近代的な知の枠組みは、自然と社会を全く異なった性質を持つものとして分割し、それぞれに自然科学と人文社会科学という異なるスタイルの知識の実践を割り当ててきました。そのため、人間とテクノロジー、地球環境という文理を超えた絡み合いを理解することは困難になっています。
前回ポストでは、科学技術論が人新世と気候変動の理解に大きく貢献してきたことを指摘しましたが、それは科学技術論がこのような絡み合いを理解するために有効な道具を提供してくれているからです。
とくに、ここで重要なのはアクターネットワーク理論(actor-network theory: ANT)です。アクターネットワーク理論のリーダーの一人で、気候変動と人新世の問題を論じてきたブルーノ・ラトゥールは、日本でも広く知られるようになってきたので、ご存知の方も多いのではないでしょうか?
アクターネットワーク理論とは、自然と社会を分けて考える従来の学問とは異なり、テクノロジーと人間の行為、動植物や地形などの自然の事物と人間が生み出した言語や概念などが織り合わさってこの世界が出来上がっていると考えるアプローチです。
この見方は、世界をモノの世界と人間の世界、自然と文化に分けるのではなく、そのつながりを捉えます。もともとは社会科学で生まれたものですが、現在ではデザイン、建築、工学、情報科学などの分野でも注目されています。
アクターネットワーク理論のこのような見方は、もともとは科学技術論の研究から生まれてきました。具体的には、科学者が実際にどのようにして研究を行っているかを、フィールドワークによって明らかにしようとする科学のエスノグラフィがそのルーツになっています。言葉とモノ、概念とテクノロジーが社会的な実践の中で複雑に結びついているという状況に最初に気づいたのは、科学の現場でフィールドワークを行った研究者たちだったのです。
1980年代の科学技術論の分野では、実際に科学者が何をしているのかを直接観察してみよう、という機運が高まってきました。こうした中、実験室に入り込んでフィールドワークをした人が四人います。一人は、日本の高エネルギー物理学の研究室のエスノグラフィを書いたSharon Traweekです。もう一人は、エスノメソドロジストのMichael Lynch、三人目は、オーストリア出身の社会学者のKarin Knorr-Cetinaです。最後の一人がラトゥールです。
彼らの発見は、様々な点で似通っていました。第一に、科学者の現場の活動の中では、社会的な要素(研究チームの分業や業績競争、科学者同士のインフォーマルな社会関係など)や実験室の多様な人工物 (顕微鏡や遠心分離器、PCRや様々な試薬など)と、科学者が探究する自然界の実在物(例えば特定の遺伝子の働き)は複雑に結びついているということです。
自然界の実在物は大抵の場合、そのものとして姿を表すというよりは、実験の中で観測器具が生み出すグラフのような視覚的なパターンとして現れます。科学の実践とは多様な器具を用いて目に見えない実在物の存在を示す痕跡を見つけ出し、それをグラフのように視覚的に識別できるパターンに変換していくことなのです。さらに、こうしたパターンを判読して、自然の事物が存在するかどうかの判断には、過去の経験に基づく解釈や、その妥当性をめぐる研究者どうしの論争といった社会的な側面が伴います。
このことは、自然の実在物は人間の関与とは無関係に、「ただそこにある」、というわけではないということを意味しています。もちろんこれは、自然界には何も存在せず、すべてを人間が作り出す、という主張ではありません。世界にはいろんなものが存在しています。
しかし、それがどんなものなのかは、実験室や様々な道具を用いた人間の働きかけなしにはわかりません。例えば、DNAというものが存在しているかどうか、という問いかけ自体が、それ以前に行われてきた膨大な科学実験の結果無くしてはあり得ないわけです。そして、科学実験がなければDNAが二重螺旋の構造をしているということも、それがタンパク質からできているということも知ることはできません。端的に言えば、自然界に存在する何かが、他から区別できるような形態を取るためには、人間の働きかけが不可欠というわけです。
そして、このように自然の事物が明確な形を取るプロセスにおいては、人間の行為や概念、科学の探究で用いられる道具や人工物、その周辺にある多様なモノが複雑に絡み合っています。
科学技術論のこの発見は、さまざまな反響を巻き起こしました。第一にこれは、自然の事物は、それ自体として、人間の働きかけとは無関係に存在しているというそれまでの見方を覆すものだったため、様々な反発を呼びました。とくに、上で示したような「自然の事物は確かに存在しているが、それがはっきりとした輪郭をもった事物になるためには、人間の活動と絡み合わなければならない」という指摘は、それまでの見方からすると大変わかりにくかったのではないかと思います。
さらに、科学技術論の中でもアクターネットワーク理論は、社会科学者からの反発も買いました。アクターネットワーク理論は、科学技術論の知見は科学やテクノロジーが社会的なものであることを明らかにしただけでなく、社会もまた科学やテクノロジーから切り離せないということを指摘しました。ラトゥール、カロン、ロウといったアクターネットワーク理論の創始者たちは、我々の生きている世界は、言語や概念、行為といった人間的なものと動植物やモノ、テクノロジーのような非人間の要素の複雑な絡み合いからできていることを明らかにしたのです。
一部の社会科学者は、この主張は独自の領域である「社会」の概念を否定するものであり(実際、ラトゥールは本を一冊書いてこのことを否定しています)、社会科学の独立を脅かす危険な考えだと思ったようです。
しかし、アクターネットワーク理論は人新世を理解するためには極めて有効です。地球システム科学は、現在の地球環境の状態は、二酸化炭素排出などの人間の活動によって形作られていることを明らかにしてきました。このように人間の活動が、二酸化炭素やそれを排出するテクノロジーのような非人間の要素を通して世界(地球)のあり方と不可分に結びついているという状況は、まさにアクターネットワーク理論が科学技術の現場で指摘してきたことだったのです。