研究室メンバーのプロジェクト紹介 その5

その4では、海外をフィールドにする神崎さんの研究を紹介しましたが、今回は博士課程の韓智仁さんの日本をフィールドにする研究を紹介します。社会人院生として、韓さんは、北海道のシマフクロウ保全を事例に、野生動物をめぐる科学的データ(知識)の生産・流通とインフラストラクチャーについての人類学的研究に取り組んでいます。以下は、韓さんが執筆した研究紹介・エッセイになります。

知識を生む、その傍らで

韓智仁
(大阪大学大学院 人間科学研究科 博士後期課程)

令和7年度シマフクロウ保護増殖検討会に、筆者は前年度から引き続き傍聴席で参加した。北海道釧路市。2026年2月25日。筆者撮影


かたわら【傍ら】 ①そば、わき ②
(ア)それをすると同時に。そのあいまに。(イ)併せて。
[『岩波国語辞典』第8版]

いま札幌に住んでいる自分には、ふたつの社会的な所属・肩書があります。ひとつはこの研究室で博士課程として研究をする大学院生。もうひとつは出版社で書籍編集をする会社員。大学の長期履修制度も利用しながら、社会人院生として研究と仕事をする生活も、この2026年3月でまるっと3年が経とうとしています。この研究室の修士・博士課程の学生にはこうしたかたちで研究をしている人がほかにも少なからずいます。別の大学の修士を修了して働きはじめてから3年後の自分(つまり今から3年前の自分)が博士課程でこの研究室に入学をしようと選択した、その決め手の1つは、こういう二足の草鞋的な研究生活を送ることが可能だろうという見通しが持てたからでした。

さて私は研究では、現代日本における科学と社会の関係、インフラストラクチャーと野生動物をとりまく政治や歴史への関心から、北海道にて行われている絶滅危惧鳥類シマフクロウの保全について調査をしています。調査の一環として、この保全活動に携わる鳥の研究者や、民間の自然保護団体であったり環境省の職員の方々などにお話をうかがっているのですが、とくに着目しているのが、かれらがどのようにシマフクロウや生息環境についてのデータを収集・整理しているのか、またそれをどのように社会に流通させているのかについてです。こうした保全の中では例えば鳥の衝突などの事故対策のために、道路や電線などのインフラストラクチャーへの介入・改変が行われます。このような活動もこの鳥についての事故原因の調査にもとづく科学的なエビデンス、つまり知識を生産する実践とかたく・複雑に結びついています。

仕事では、文化人類学や地域研究などの学術書の編集をしています。横浜のちょっとした丘の上にある春風社という会社で、2020年から現在までフルタイムで働いています。博士論文を書籍化したものや、共同研究プロジェクトに基づく論文集といった専門書をつくっています。専門家が各自の知識を適当なかたちに作り上げていく、その手助けをすることを生業としていると言えるでしょう。

ゲラを読む筆者。京都府京都市。2024年10月15日。河井彩花氏撮影

ところでこの2つには、内容として文化人類学にかかわるものであるという以外に、なにか共通点はあるでしょうか。交点のひとつとして、「知識生産のバイスタンダー」があるのではないかと、さしあたり考えています。

これは立ち位置の話ではなく、知識生産への関与のしかたのことです。つまり、どちらの活動においても私は、ある特定の慣習や美学をもつ知識生産を行う集団の隣で、〈当事者というわけではないしかた〉で関わっています。シマフクロウ保全の調査で私は、保全関係者らがデータを生み出し、それを運用しながら保全を行うのを隣で・肩越しに見て、記録し、時々「いまなんでこういったことをしたんですか?」と質問したりしています。シマフクロウの保全は生息地等の情報の管理がシビアに行われており、そうした情報を扱うことができる「関係者」かどうかの線引きが厳密なのですが、私は「関係者ではない」立場から、かれらの活動を見ています。また編集業においては自分はその書かれた内容についての非専門家として仕事をしています。専門家が研究で生み出した知識に、適切に評価されるべく形を与えるため、原稿から本になるまでの工程管理や装丁・印刷の手配をしたり、「ここの表現はこれで大丈夫ですか?」と校正をしたりしています。著者と協働的に本をつくっているのですが、しかしその本の内容を知識として有している専門家でもなければ、自分の名前が著者としてクレジットされているわけでもありません。

シマフクロウは看板(写真右下)や彫像としては頻繁に姿を見ることができるが、その生体を野生下で見ることはほぼ不可能であり、実際にどこにいるのかは保全関係者を除いて一般にはほぼ知られていない。北海道知床半島の斜里町と羅臼町の境界(奥は羅臼岳)。‎2024年10月30日。筆者撮影

ただもちろん両者には違いもあって、自ら知識を生み出すかどうかという点があります。保全活動についての調査において、私の主眼はシマフクロウの野生個体群の増加や生息環境の改善にあるわけではないです(もちろんそれに寄与することがあるのであれば喜ばしいですが)。あくまで、文化人類学や科学技術社会論としての専門的な知識を生み、それとして評価されることをひとまずは望んでいます。一方で、出版は究極的には本をつくることが目的です。自分で新しい知識を生み出すのではなく、著者の書き記した知を学術的な文章の体裁にフォーマットし、本という形を与えることがその目指されるところにあります。

ではこうした「知識生産のバイスタンダー」 という発想、あるいはそうした発想をあたためることになった私の日々は、文化人類学の議論とどのように交差するのでしょうか。このエッセイの残りで試しに考えてみます。

こうした論点は、知識の人類学(anthropology of knowledge)の系列の中で考えられてきました。知識の人類学とは、例えばBarth[2002]によれば、知識の体系が社会関係のなかでどのように生産されるのかを、比較民族誌的に分析する試みのことです。彼は、ひとつの知識の伝統を「世界に関する具体的な主張やアイデアのまとまり(知識の内容)」「表現のメディア」「社会組織」という3つの側面に分け 、知識が実践される具体的な行為の瞬間に、これら3つがどのように相互に制約し合ってその知識固有の「妥当性の基準」を生成するのかを分析することを提案しました。そうした知識生産活動のいちバリエーションとして科学という営みもあると位置づけ、実験室での生化学的研究であれ他の伝統的・慣習的知識であれ、その実体・メディア・社会組織の相互作用を解明できるとします。

さらに知識の人類学をめぐっては、私たち人類学者は、かれらとのどのような関係のなかで知識を生産するのか、という問いがあります。バイスタンダーというのは直接的にはこの議論に結びつくでしょう。素朴な「調査者-被調査者」モデルに頼ることができない現代のエスノグラファーにとって「ただ観察し記録をする者」、つまり「傍観者」であるという名乗りは失効しています。観察する-されることの立場性や、知識の所有とその権利といったものに加えて、その知識の価値を自他の差異に依拠させている文化・社会人類学にとってクリティカルなのは、現代のフィールドにおける調査協力者たちは、人類学者と同様に自らの実践を考察し、独自の知識を生産する人たちでもあることです。インターネットも用いながら膨大な文献・レポートとの関係の網の目のなかに自らの活動を紐づけ、ドキュメントとして自分たちの知識を世界の中に存在させる。かれらと私たちの知識実践はあまりに似ており、その人類学的な自他の距離は崩壊しています[Riles 2000]。

こうした状況のなか、マーカスの「パラサイトエスノグラフィ」という方法はその乗り越えのひとつのやり方を示します[Marcus 2000: 1-13]。現代の人類学の調査地は、旧来のような境界の明確な「現場(site)」ではなく、彼らがすでに形成している言説や知識生産の枠組みに「寄生的(parasitic)」に依存し、間借りすることで立ち上がる「準-現場(para-site)」へと変容せざるを得ない。私たちは外部の傍観者のままでいるのではなく、対象自身の概念化のプロセスに寄生し、その知識実践と共犯的な関係を結ぶことによって、自らのエスノグラフィを生産することができるのだ。

マーカスはこのように、他の人たちの知識生産への関与のしかたのひとつの有効な手段を提示します。これはあくまでも自らも調査協力者となにかしら協働のうえで――あえて言えば、むこうにこちらから歩み寄り、調査者-被調査者よりも近しい関係を作ることによって――知識生産を行うことを少なからず必要としています。しかし、シマフクロウ保全への調査の中で感じることは、「保全を行っている人たち」と「保全を行っているわけではない人である私」との差異であり(後者から前者への移行は、生態学・鳥類学を専門としていない私には相当に高いハードルです)、この差異ゆえのダイレクトな協働の困難です。

ではここにおいてまだ、彼らと私たちが異なること、直接的に協働しているわけではないことについて何か考える余地はあるでしょうか。この困難は何かポジティブ・生産的なものにつながるのでしょうか。その際に編集業について考えてみることは補助線になりそうです。

編集者は他人の知識生産に対して、仕事のなかで著者のつくった内容に、形式・かたちを与えることで関与します。つまり書かれたもののフォーマッティングと物質化を管理し、知識が社会に流通する際の接面を形づくっています。一方でまた、編集者は本の内容以外の別の知識を生み出してもいます。校正記号の使い方、紙やインキの種類・特徴、DTPソフトの使い方や裏技的なコツ、著者や印刷所・デザイナーとのコミュニケーションの作法、人間関係の所在と質、著作権法、業界の慣習や会社の文化……。これは仕事の上で必要な、明文化されたり暗黙の領域に留まったりする様々な知であり、またこの知は有形・無形もバラバラです。そして日々の仕事のなかで、正しい・有効な知識を有しているか暗に明にテストされます(当たり前の指摘ですが、経験年数をそれなりに有した人が評価される一つの理由は、こうした知識の多大な総量と的確な運用によるものでしょう)。

書籍の束見本。本の厚みや重さを把握するためのもので、ページは真っ白であり、純粋に「形だけ」の本だと言える。装丁デザインに先立って、印刷所に制作を依頼する。2026年3月2日。筆者撮影

この振り返りから取り出せるのは、ある知的生産活動を行っている人たちの傍らでその活動を目にしつつもその人たちとは別の知識を生むことが、必ずしもネガティブではないことであり、またそこで異なる形式・形態を用いることに着目できそうなことへの予感でしょう。ここで私は、Barthの整理する「知識の人類学」の検討対象となる3側面のうち、「表現のメディア」にやや重みを加えたいと思っているかもしれません。他の2つと比べて特にこれは、「他の集団がまた別の集団の知識を知る」、そのしかたに関わるからです。つまりシマフクロウ保全を調査することで言えば、シマフクロウの保全関係者の人たちに対して私が生み出す知識がどのようなものであるか、どのように新しいのか・違う知識生産者なのかをとくべつ焦点化するとき、私が単なる記録者にとどまらず、自らがどのようにその知識の形態を作り上げるのかこそが問題になるだろうということです。

現代の知識経済において、知識労働者として活動する私たちが知識に関与するとき、それは単に知的好奇心や仕事のアイデンティティ・やり方のみによるものではなく、それらを屈折させる専門性の経済と常に絡み合っています[Boyer 2005]。こうした屈折や絡み合いの診断は、知識の形への着目によってこそ進めていくことができるのではないでしょうか。このエッセイで書いたことはそのことを展望させます。

ちょっと長ったらしくなりましたが、このように私は、シマフクロウ保全に携わる人たちと調査者の私との関係、学術書の著者である研究者と編集者としての私との関係から生まれてくる様々な問いや関心を小脇に抱えながら、研究、仕事、生活をしています。 

[参照文献]
Barth, Fredrik. (2002). An Anthropology of Knowledge. Current Anthropology, 43(1), 1-18.
Boyer, Dominic. (2005). Visiting Knowledge in Anthropology: An Introduction. Ethnos, 70(2), 141-148.
Marcus, George E. (Ed.). (2000). Para-Sites: A Casebook Against Cynical Reason. The University of Chicago Press.
Riles, Annelise. (2000). The Network Inside Out. The University of Michigan Press.